夜更けの麺と、小さな相談
2026-07-11 04:15:24
対象年齢:全年齢
参加お題:ラーメン
王都下町。
衛兵詰所から二筋離れた石畳の辻。
昼は荷車が行き交うだけのその場所も、夜更けになると一軒の小さな移動屋台が暖簾を掲げる。
湯気立つ寸胴。
炭火の香り。
麺を湯切りする乾いた音。
夜勤へ向かう者。
巡回を終えた者。
非番になった者。
衛兵たちは、示し合わせたようにその暖簾をくぐる。
酒場ほど騒がしくなく。
礼拝所ほど堅苦しくない。
だからこそ、本音が漏れる。
「また西門で荷馬車が立ち往生したそうだ。」
「最近、夜盗が静かすぎる。」
「王宮から監察官が来るらしいぞ。」
何気ない愚痴。
他愛ない噂話。
だが、それらは王都の空気そのものだった。
店の隅。
三つ並んだ席。
黒髪長身の幸運神官シャーリーは、静かに麺をすすりながら耳だけを周囲へ向けていた。
狐耳を揺らすダキニラは、笑顔のまま客席へ視線を巡らせる。
二人の目は一度も合わない。
必要がない。
誰が巡回帰りか。
誰が休暇明けか。
誰が疲れているか。
誰が無理に笑っているか。
そして、誰が言葉にできない不安を抱えているか。
歩き方。
箸の持ち方。
視線。
沈黙。
賢者の学院スカウト科で叩き込まれた観察術は、紙も羽根ペンも必要としない。
見て、聞いて、覚える。
それだけだった。
一方、その隣では。
「この麺……少し加水率を変えてる。」
チェルキーだけは真剣そのものだった。
「前より弾力があるね。」
「このスープなら、もう少し縮れてても面白そう。」
「チャーシューも炙ってある。」
完全に料理人である。
シャーリーは苦笑した。
「チェルキー殿は、そのままで結構ですぞ。」
「うん?」
「拙尼どもは周囲を見ておりますゆえ。」
「私は麺を見ればいいの?」
「ええ。」
「料理人のお仕事をお願いいたします。」
「任せて!」
チェルキーは嬉しそうに頷き、再び丼へ向かった。
その自然さこそが、この場では何よりの擬装だった。
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その少し前――下町礼拝所。
アセリアは、シャーリーの姿を探していた。
「シャーリー助教はいらっしゃいますか?」
炊き出しの片付けを終えたバルサムが振り返る。
「ぬう。今日は見かけておらぬな。」
少し考え込み、思い出したように続けた。
「チェルキー殿と共に出ておられた。学院の用事かもしれぬ。」
アセリアは小さく肩を落とす。
「……そうですか。」
その表情を見たバルサムは腕を組んだ。
「光のスール殿。何か、お悩みか。」
「明日、急遽、賢者の学院で説法をすることになりまして……。」
「シャーリー助教に、ご助言をいただきたかったのです。」
しばらく黙って聞いていたバルサムは、大きく頷いた。
「ぬう。」
「チェルキー殿と共に動いておられるなら、何か用事なのだろう。邪魔をすべきではない。」
そう言ってから、思い悩む少女の顔を見つめる。
「……しかし、その様子では急ぎなのであろう。」
再び一つ頷く。
「やむを得まい。」
「我も同道しよう。」
「話の邪魔はせぬ。ただ送り届けるだけだ。」
アセリアは安堵したように微笑み、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます、ブラザー。」
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その時だった。
暖簾が揺れる。
白い略装の修道服。
胸元には、太陽を戴く白金の十字架。
茶髪のセミロングを揺らす、小柄な少女。
至高神に仕える若き巫女、アセリア。
その後ろには、七尺近い巨体。
黒い肌。
筋骨隆々。
サングラス。
大地母神の神官、バルサム。
「ぬう。失礼する。」
その一言だけで、店内の空気が変わった。
衛兵たちは箸を止める。
店主は思わず姿勢を正した。
シャーリーは心の中だけで小さく息を吐く。
(……よりによって。)
ダキニラも視線だけを動かした。
(張り込みは終わったね。)
対してチェルキーだけは、満面の笑みだった。
「あっ、アセリアちゃん!」
「バルサムさん!」
「こんばんは!」
アセリアは丁寧に一礼する。
「こんばんは、チェルキー助教。」
そしてシャーリーへ向き直った。
「突然申し訳ありません。」
「シャーリー助教に、ご相談したいことがありまして……。」
シャーリーは静かに箸を置く。
「構いませんぞ。」
「どうされましたかな。」
アセリアは少し俯いた。
「明日、賢者の学院で説法をさせていただくことになりました。」
「ですが……学院の皆様を、私ほとんど存じません。」
「どのようなお話をすればよいのか、ご相談したくて……。」
シャーリーは穏やかに微笑んだ。
「神学を語る必要はありませんぞ。」
「学生たちが聞きたいのは、教典ではなく。」
「アセリア殿ご自身のお話ですな。」
「神の声を初めて聞いた日のこと。」
「迷われたこと。」
「学ばれたこと。」
「それだけで十分に心へ届きますぞ。」
アセリアは安堵したように微笑んだ。
「……ありがとうございます。」
横ではバルサムが深く頷く。
「ぬう。その通りだ。」
チェルキーも笑顔で続ける。
「今日は早く寝てね。」
「ホットミルク飲むと、緊張が少し楽になるよ。」
「はい。」
アセリアは素直に頷いた。
相談はそれだけだった。
二人は席を立つ。
暖簾をくぐる直前、アセリアが振り返る。
「……シャーリー助教。」
「本日は、大事なお仕事だったのではありませんか。」
シャーリーは一瞬だけ目を瞬かせる。
そして、いつもの笑みを浮かべた。
「ふひひ。」
「屋台商売の研究ですぞ。」
「下町を知るには、まず食から――ですかな。」
ダキニラは口元を押さえ、
「うぷぷ……。」
と肩を震わせる。
チェルキーは真顔で頷いた。
「うん。」
「私は麺を研究してたよ。」
アセリアは少しだけ首をかしげる。
「……?」
だが、それ以上は尋ねない。
「お邪魔してしまったみたいですね。」
「失礼いたします。」
深く一礼すると、バルサムとともに夜の石畳へ消えていった。
暖簾が閉じる。
しばらく静寂。
ダキニラが耐えきれず吹き出した。
「うぷぷ……。」
「屋台商売の研究って。」
チェルキーは本気で不思議そうな顔をする。
「違うの?」
シャーリーは額に手を当て、小さくため息をついた。
「……拙尼も、何を研究していたのか分からなくなってきましたぞ。」
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