化学の授業では教えません
2026-10-23 17:39:18
対象年齢:全年齢
参加お題:化学
「この件については、学院の魔術師は協力できない」
ギラン主任教官は、机に置いた報告書を指先で押さえた。
「ふひひ。お腹が痛い話ですからなあ~」
シャーリー・クラウンは、いつもの調子で笑った。
人が突然、意識を失う。
外傷はない。毒物の痕跡も乏しい。目撃者の証言を集めても、原因ははっきりしない。
ただ、何件かの事件には奇妙な共通点があった。
被害者が倒れる直前、近くに古代語魔術の使い手がいたというのだ。
「睡眠雲……ですかな?」
「断定はできん。だが、もしそうなら厄介だ」
ギランは眼鏡を押し上げた。
眠りをもたらす魔術は、古い冒険者の伝承にも見られる。ところが、その術式は意外なほど単純で、しかも痕跡が残りにくい。
普通の人間なら、抵抗する間もなく意識を失う可能性がある。
一方、酸の雲のような術式は複雑で、魔力の消費も大きい。被害も目に見える。使えば、調べる側に手掛かりを残す。
危険な術ほど、必ずしも扱いが難しいとは限らない。
「学院が正式に調査すれば、どうなるか」
「禁じられた知識を学院が隠していた、と勘ぐられますな。あるいは、証拠を消しに来たと思われるますかな。痛いお腹をさぐられますぞ」
「……その通りだ」
ギランは苦々しげにうなずいた。
学院の名を出した途端、事件は魔術犯罪ではなく、学院の責任問題に変わりかねない。
「ふひひひ。よいのですか、拙尼に頼み事などして」
「貴公が、この学院の絶妙な立場の維持に腐心しているのは把握している」
「……フヒヒヒ。読心魔法《コールドマインド》は禁呪ですなああ~」
「そんな魔法は存在しない。たとえあって使えても、貴公相手にそんな恐ろしいことができるか」
「ふひひひ、脅かし過ぎましたかな」
ギランは深く息を吐いた。
「……魔法よりも人の方が恐ろしいのだ」
*
手掛かりを探したのは、学院の大環状図書館だった。
ただし、調べたのは非公開の捜査資料ではない。古い入学者名簿、公開講義の記録、研究発表会の登壇者一覧、表彰記録――誰でも閲覧できる資料ばかりだ。
「この名前、少し気になりますね」
知識の女神ラーナの使徒であり、学院の研究者でもあるラニアが、古い記録を指でなぞった。
「以前は、古代語魔術の研究発表に何度も名前が出ています。でも、ある時期から急に見かけなくなるんです」
「退学、あるいは研究の中断?」
「そこまでは分かりません。記録にないことと、何かをしたことは同じではありませんから」
「ふひひ。さすがは知識の女神の使徒。慎重ですな」
「記録は、分かることと分からないことを分けるためにあるんです」
ラニアは眼鏡の奥で目を細めた。
名前が消えたことは、罪の証明ではない。
だが、事件の発生時期と照らし合わせれば、確かめる価値のある手掛かりにはなる。
シャーリーは、その名を手帳に書き留めた。
「では、本人に聞いてみるとしますか」
「危険ですよ」
「ふひひ。だからこそ、学院の魔術師は行けないのでしょう?」
シャーリーは手帳を閉じた。
「なあに。ちょっと、お話をするだけですぞ」
突入を前に、シャーリーは手早く布袋を用意していた。
赤と金の神官服の上には、なぜか白衣。
「……急いでいるのでは?」
「ふひひ。だからこそ、事前準備ですぞ」
シャーリーは怪しげな粉末を詰めた袋を懐にしまい、白衣の袖を整えた。
「では、化学の実地試験と参りましょうか」
*
研究室は、街外れの古い建物にあった。
扉の隙間から、青紫色の光が漏れている。
室内には蒸留器、ガラス容器、封をされた標本瓶。鉱物や植物の欠片が分類され、机の上には古代語の術式と実験記録が散乱していた。
魔術研究室というより、危険な実験を続ける錬金術師の工房だった。
「……なるほど。ずいぶん熱心ですな」
シャーリーは、容器に貼られた札と記録帳を目で追った。
そこに並ぶのは、薬品の調合記録だけではない。魔力の流れを記した図、術式の試行錯誤、被験対象の反応と思われる記録まである。
研究の痕跡は、整然としている部分と、明らかに破綻している部分に分かれていた。
知識はある。
技術もある。
だが、止まるべきところで止まっていない。
「誰だ!」
奥にいた男が振り返った。
元学院魔術師。公開記録に残っていた名前の主だ。
男は杖をつかみ、シャーリーをにらんだ。
「ここへ何をしに来た!」
「お話を、と申し上げましたが」
「ふざけるな!」
男の口が、古代語の詠唱を始める。
シャーリーは動いた。
小さな布袋が、男の足元へ飛ぶ。
床に当たった袋から、細かな粉がぱっと舞い上がった。
「なっ――!」
男は反射的に顔を背けた。詠唱が途切れる。
ほんの一瞬。
だが、魔術師にとって、その一瞬は致命的だった。
「失礼」
シャーリーの手から、鎖鞭が走った。
鞭は男の杖を弾き飛ばし、机の向こうへ跳ねさせる。
男はすぐさま別の術式を組み立てようとした。だが、詠唱を再開する前に、シャーリーが間合いを詰めていた。
「小娘が!」
男が短刀を引き抜いた腕を振るう。
シャーリーは正面から力比べをしなかった。踏み込みをずらし、腕を押さえ、体勢を崩す。
次の瞬間、男は床に倒れていた。
シャーリーは腕と肩を制し、逃げられない位置に体重をかける。男がもがいても、杖は遠い。鎖鞭も、もう手の届く場所にはない。
「ぐっ……離せ!」
「お断りしますぞ」
シャーリーは涼しい顔で答えた。
「まだ、お話が終わっておりませんからな」
*
男を押さえたまま、シャーリーは室内を見回した。
床に転がった杖。
散乱した術式の記録。
封じられた容器。
そして、実験の対象と結果を記した帳面。
これだけの設備と記録があれば、事件との関係を調べる手掛かりになるだろう。
もちろん、帳面に書かれた内容が、そのまま事実を示すとは限らない。必要なのは、証拠を確保し、専門家が慎重に検証することだ。
ただし――。
「この器具は、勝手に触らない方がよさそうですな」
「何をぶつぶつ言っている!」
「いえいえ。押さえつけるのと、危険物を扱うのは、別の技術ですので」
シャーリーは男の腕を押さえ直した。
神罰の光を浴びせるより、魔術の詠唱を止める。
派手な術を撃ち合うより、杖を遠ざける。
そして、相手が次の一手を考える前に、地面に寝かせる。
実に地味で、実に実用的な制圧術だった。
「さて。まずは、この研究室の説明からお願いしましょうか」
「貴様……!」
「ふひひ。ご安心を。お話が済めば、学院の方々にも確認していただきますからな」
シャーリーは、ようやく男から視線を外した。
彼女が見ているのは、勝利の余韻ではない。
床に散らばった記録と、まだ何が入っているのか分からない容器だった。
魔術を止めることはできた。
だが、この研究が何を生み、誰を傷つけたのか――それを明らかにする仕事、まだ始まったばかりだった。
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